千石地域紹介 
千石のそよかぜは地域の町内会、消防団、商店街の方々の協力のもと情報を掲載しております。
縁があって、この地域に住んでいる皆様がもっと千石に親しみを持っていただけるように紹介を致します。

 

目次

  1. 千石の歴史
  2. 町内会とは?

 

【1:千石の歴史】

普段過ごしている町が江戸時代だったころを想像できるでしょうか?
希少な資料の中から、地域の方々が調べた歴史の断片をご紹介します。

■江戸時代
徳川家康が江戸に入るまで千石の地は、荒地だったとされています。
家康が江戸に入った後、地方の藩主が参勤交代で江戸に集まるようになりました。
千石にも武家屋敷が出来て一橋徳川家や伊予国大州藩の加藤家等が住んでいました。
現在、一橋徳川家の元土地が千石1丁目にある区立千石緑地に留まるのみです。
1994年からこの緑地は一般開放されています。

■明治時代
明治維新後、屋敷等はほとんど明治政府に接収され政府の政策で輸出品目であったお茶や絹(養蚕)生産の為、千石地域は茶畑・桑畑が多くなりました。
この頃に現在も残る地域の小学校が開校しました。1874年(明治7年)に明化小学校が開校し、千石の発展と共に人口が急増していき、1910年(明治43年)に林町小学校の開校にしています。

■戦前~戦後
戦時中、1944年(昭和19年)の第二次世界大戦の東京空襲において多くの建物が焼失し、千石地域から見てJR巣鴨駅や白山地域まで見通せるぐらいの被害を受けました。ただし当時の建物が戦火を逃れ現在も残っており、伊勢五・進開屋蕎麦店・東京諸聖徒教会は東京都の登録有形文化財に指定されています。

■思い出の路面電車
路面電車といえば荒川線が有名ですが、かつては千石でも路面電車が走っており不忍通りは路面電車の為に作られた道でした。
1921年(大正10年)12月に当時の東京市が護国寺線として駕籠町(現:千石1丁目交差点)~大塚仲町(現:大塚三丁目交差点)間を敷設しました。当時不忍通りは通称電車道と呼ばれていたそうです。高度経済成長期に自動車や地下鉄が発達して乗客が減り、路面電車は1971年(昭和46年)3月に廃線されました。現在都営バスの早稲田から上野松坂屋前を結ぶ上58系統がこの名残として不忍通りを走っています。


【2:町内会とは】

町内会という自治会は、1940年(昭和15年)に内務省の指示により発足しました。
千石という地名の中には9つの町内会があります。
防災訓練や地域の政策懇談会として利用されてきましたが、戦後は子どもの登下校時の交通安全指導、夏休みのラジオ体操、秋のお祭りなど各町会によって活動は違いますが地縁組織として住みやすい町づくりの活動をしてきました。

1995年の阪神・淡路大震災の時にボランティアの活躍とともに地域の町内会、自治会のしっかりしているところと、そうでないところとは直後の対応や復興に際し違いが出たとのことです。救急車も消防車も来ないなかでけが人を救いだすこと、そして物資の無いなかで備蓄品や装備の活用など日頃からの地域のつながりが試されたようです。

いざという時に備え日ごろの交流やご近所づきあいからの連帯感によって相互扶助の精神が養われ地域の防災力強化につながります。
顔見知りの子どもを地域で見守る、お年寄りの安否を地域で確認するなどご家族の輪だけではまかないきれないところを地域のつながりで補い居心地の良い町を作るのが町会活動です。ご参加のほどお願いします。